現代催眠の父「ミルトン・ハイランド・エリクソン」
エリクソン医学博士は、斬新な心理療法を行うことで有名な催眠家でした。
エリクソン博士は、78歳でこの世を去るまで、様々な患者を彼独自のやり方で治療しつづけました。
例えば、車を運転して町から出ようとするとパニックになる患者に、こんな指示を出しました。
「まず上等なスーツを着て車を運転しなさい。
パニック症状がでたら側溝で横になり、症状がおさまるまでじっとしていなさい。
発作が治まったらまた車を運転しなさい」
患者は指示どおり、運転しては側溝で横になりを繰り返していたら、やがて普通に車を運転して町から出られるようになりました。
これ以降パニック症状は消えたそうです。
不眠症で悩む男性には、「眠れない夜は一晩中、床のモップがけをしなさい」という課題をあたえるだけで、不眠症を治療しました。
おねしょで困っている子供には、その子が興味のあるスポーツの話しをいくつもしました。
数ヶ月後におねしょは治りました。
エリクソン博士は、患者の個性に合わせて治療をおこないました。
その治療は、緻密に計算された催眠暗示や、逸話、行動課題などで構成され、お薬はほとんど処方しなかったそうです。
エリクソン博士は、治療の過程で一見、催眠を用いていないようみえても、どこかで催眠的な治療をおこなっていたそうです。
催眠というと、言葉で無意識に暗示をいれるだけだとおもわれがちですが、エリクソン博士は体の動きや表情などを使うことで、言葉の通じない相手も催眠状態に導くことが出来ました。
彼のこうした能力は、天才性はもちろんあったのでしょうが、訓練によるものでもありました。
エリクソン博士は、10代のときにポリオ(小児麻痺)に罹りました。
自分の麻痺した体をまた動かせるようにするために、ハイハイを始めたばかりの妹の動きを観察して、体の動かし方を学び直しました。
このときの経験が、彼の鋭い観察能力につながっていると言われています。
エリクソン博士は、ポリオ以外にも障害を持っていました。
音楽が理解できない障害や、色が認識できない障害、幼少期には文字の読解も難しかったそうです。
しかし、彼は自分のこうした障害すらも、患者の治療に活かしました。
ミルトン・エリクソンという人間の生き方自体が、患者や援助者に啓発をあたえてくれます。
個人的には、ポリオから回復するために、カヌーにのって一人旅をするエピソードは、驚きと共に勇気をもらいました。
エリクソン博士は、50代でポリオが再発しますが、しばらく入院した後、治療を再開します。
晩年には、車いすに乗って治療をつづけました。
エリクソン博士は治療者として、患者と関わりつづけましたが、その一方で、催眠の研究と教育に力を注いでいました。
催眠はその昔、神秘的なものや大道芸的なものがほとんどでした。
エリクソン博士が現代催眠の父といわれるのは、催眠を科学や治療法として、米国を中心に世界へと普及させたからです。
エリクソン催眠以前の催眠は、直接的な暗示を相手に施すものでした。
しかし、エリクソン博士は相手の能力を引き出すために、あらゆるものを利用するという、許容的な催眠を心理療法にとりいれました。
例えば、親指のおしゃぶりがやめられない子供には、「ほかの指もしゃぶってあげないと不公平ですよ」と言いました。
すると子供は、人から言われて指しゃぶりするのは嫌だったらしく、指しゃぶり自体をやめるようになりました。
このようなミルトン・エリクソン流のアプローチが、現代の催眠療法だけでなく、心理療法全体に多大な影響をあたえています。
ナラティブセラピー、ブリーフセラピー、認知行動療法、家族療法、NLPなども、エリクソン催眠療法から発生したり、影響を受けていると言ってもいいでしょう。
ここまでミルトン・H・エリクソンについてお話ししてきましたが、彼の魅力は簡単に語り尽くせるものではありません。
それでももし、私がエリクソン博士のことを一言であらわすとしたら、「尊敬に値する、天才的な催眠療法家」そんな風に表現します。
催眠家としてのエリクソン博士にご興味をもたれたら、『ミルトン・エリクソン―その生涯と治療技法』という書籍もありますので、一読なさってください。
きっと彼の生き方から、セラピー的なメッセージをもらえることでしょう。